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蟻通神社ブログ

陸軍 明野飛行学校 佐野分教所
<産経新聞さんの記事>

 陸軍明野飛行学校佐野分教所は、陸軍が広大な田畑やため池用地などを強制買収して、昭和18年より建設にかかり、終戦直前に完成したものです。

 このブログでも何度かご紹介してきましたが、蟻通神社はこの飛行場の建設によって、強制移転を余儀なくされ、現在地に遷座致しました。

 先日、インターネットでいろいろ検索をしていましたら、偶然、この飛行場の建設にまつわる産経新聞さんのページを見つけました。
 当時のことをご存じの方が、少なくなってきましたので、貴重な資料だと思いました。
特集記事でした。

  大阪の20世紀(10) 産経新聞 アーカイブ
   1999年5月9日 です。

詳細な内容で、当時の様子がよくわかります。ご興味のある方は、検索なさってみてください。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年11月28日



牛神祠(ほこら)について
<奉納された子孫の方に出会いました。>

先日の台風12号は各地に甚大な被害をもたらしました。被害にあわれた方々へ心よりお見舞いを申し上げます。
 
 9月8日は、秋分前の15日目にあたり、二十四節気の白露(はくろ)といいます。
白露は「しらつゆ」の意で、このころ秋の気配が加わり、野草に宿るしらつゆが、秋の趣をひとしお感じさせるというところからきたそうです。
ついこの間まで、エアコンなしでは寝苦しいほどだったのに、朝晩めっきり涼しくなり、慌てて長袖のパジャマを探しました。お昼間との気温差が大きいので、皆さまお風邪などひかれませんように。

 さて、今日のテーマは、牛神さんの祠についてです。境内の東北に鎮座しています。

 先日偶然、その牛神さんの祠を奉納して下さった方の6代後にあたる子孫の方にお会いしました。ご家族の方やご本人が年に何度もご参詣下さっているのに、なかなかお会いする機会がなくて、私がお会いするのは初めてでした。その方にいろいろお話を伺うことができまして、大変うれしかったです。
 
 大正12年生まれとお聞きしましたが、かくしゃくとされていて、大変お元気でした。牛神祠を奉納された理由は、わからないそうです。昔、長滝村で飢饉が起こったときその方のご先祖や村の何軒かある庄屋さんが、困っている人々にお粥をふるまわれました。
 
そのことを聞いた岸和田藩主がご先祖をお城によんで、お褒めになられたそうです。古来より、助けられる立場にいる人は、困っている人をお助けするという奉仕の活動をされていたことをお聞きして感動しました。

牛神ほこらです。
家内安全・五穀成就と彫られています。
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郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年09月09日



長滝駅のスタンプ
<JR阪和線 長滝駅>

 昭和5年(1930)に、当時阪和電気鉄道(現JR阪和線)と呼ばれていた天王寺・東和歌山線が、開通することになりました。
 新駅の誘致をめぐっては、紆余曲折があったようなのですが、昭和5年ここ長滝村にも新駅が設置されることになりました。

 その長滝駅の窓口近くに記念スタンプがあります。1年位前、何気なく見たら、なんと蟻通神社のことをテーマにしてくださったスタンプでした。スタンプのデザインは、ちょうど南側の鳥居から本殿を見た風景かなと思われます。
長滝駅に行かれましたら、お探しになってくださいませ。

駅員さんにお許しをいただいきましたので スタンプを紹介させていただきます。
すみません。少し斜めになってしまいました。
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郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年08月28日



貝の池の写真
<長滝のため池貝の池・その2>

平成元年から3年にかけて、関西国際空港設置敷設に伴う、空港連絡道路用地の代替農地の創出のため、池敷き二分の一の埋め立て工事が行われました。今は、提体がきれいに整備されて、ランニングする人や犬のお散歩をする人々などの憩いの場となっていました。


貝の池から山側を見た風景
ちょうどJRの特急はるか号が通過しました。
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池から海側を見た風景
うっすら見えるのが、ゲートタワービルです。
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貝の池農地造成の碑がありました。

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「貝の池農地造成の碑文」を抜粋させていただきます。

 貝の池は、およそ四百年以前の豊臣秀頼の時代(1598~1615)に、当時大阪城にあった奉行、江州守片桐且元が、代官石田久右衛門を普請奉行に命じて完成されたとされています。
 
 この長い年月にわたって、長滝地区における主要なかんがい用水源として、田地を潤し続け、村の人々に限りない恵みを与えて来たのであります。

 しかし、昭和十六年の太平洋戦争の勃発とほぼ同時期に陸軍明野飛行学校佐野分校の飛行場建設に伴って、その受益地のすべてを失い、廃池の運命を余儀なくしたのであります。
 
 戦後、村人たちの熱い願望によって、昭和二十六年から三か年の復活工事が行われ、再び、元の雄姿を取り戻したのであります。
 
 いかんせん、半世紀を経て今また、関西国際空港線の敷設によって失われる農地の代替え地を生み出す必要から、池敷きの半分が埋め立てられることになったのであります。
 
 その竣工にあたり、ここに記念の碑文を留め、貝の池の恩沢に、末永く応えんとするものであります。
                平成三年三月吉日

        







郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月28日



長滝の歴史・7
<近世後期から近代>

 長滝は、周辺農村とともに和泉木綿の産地として知られるようになりました。当初は、自家用であったそうですが、その後岸和田藩の奨励もあって、綿花栽培がいちだんと盛んになり、特産品としての和泉木綿が誕生しました。こうして江戸時代に近代紡績業発展の基盤が出来上がりました。

 廃藩置県後、旧岸和田藩領は岸和田県となり、まもなく堺県の管轄となります。やがて堺県も大阪府に組み込まれて、まもなく何度かの改変をへて、近世の村は明治21年(1888)市町村に編成されていきます。
 長滝村は、他村と合併されることなく近世村の範域がそのまま市制町村制下の村として再編成されることになったそうです。

 明治9年の長滝村は、人口1,670人で、大多数が農家であったと見られています。やがて綿業の発展を背景に、近代の泉南地域では紡績業が勃興し、特に佐野周辺では、タオル工業が盛んとなりました。長滝でもタオル製造のための工場が次々と設立され、産業構造は変化し、農家の方が減り、農地が工場にかわるなどの地域の景観も変化していきました。

 かつては今現在よりもっと、芸能興行や盆踊りなどが盛んであったのは、このような地場産業の活況に支えられていたからと言えるそうです。(昔は、長滝中・西・東の三番が三か所別々に盆踊りをしていたそうです。両親の若い頃は、盆踊りなどは、夜通し踊ってにぎやかに過ごしていたそうです。)

 近代の長滝村の出来事として、忘れてはならないのが(ブログの記事でも何回も繰り返しになりますが)、第2次世界大戦のさなかの飛行場建設です。
昭和16年(1941)開戦とほぼ同時に陸軍明野飛行学校佐野分校の飛行場が建設されることになり、佐野町・長滝村を含む1町3村にわたる280haほどが立ち退きを余儀なくされました。多くの田畑・宅地・ため池が買収され、住人が移転を迫られ、また、当蟻通神社も現在地に移転をすることになりました。

 長滝村は、昭和29年(1954)泉佐野市と合併して行政村としては、消滅しましたが、現在も依然自治的なまとまりとして、その重要性は、失ってはいないと言えるそうです。

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蟻通神社の旧社地の風景
上に見えるのは、関空の連絡道路です。


参考文献:長滝の民俗

郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月22日



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