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蟻通神社ブログ

貝の池の写真
<長滝のため池貝の池・その2>

平成元年から3年にかけて、関西国際空港設置敷設に伴う、空港連絡道路用地の代替農地の創出のため、池敷き二分の一の埋め立て工事が行われました。今は、提体がきれいに整備されて、ランニングする人や犬のお散歩をする人々などの憩いの場となっていました。


貝の池から山側を見た風景
ちょうどJRの特急はるか号が通過しました。
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池から海側を見た風景
うっすら見えるのが、ゲートタワービルです。
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貝の池農地造成の碑がありました。

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「貝の池農地造成の碑文」を抜粋させていただきます。

 貝の池は、およそ四百年以前の豊臣秀頼の時代(1598~1615)に、当時大阪城にあった奉行、江州守片桐且元が、代官石田久右衛門を普請奉行に命じて完成されたとされています。
 
 この長い年月にわたって、長滝地区における主要なかんがい用水源として、田地を潤し続け、村の人々に限りない恵みを与えて来たのであります。

 しかし、昭和十六年の太平洋戦争の勃発とほぼ同時期に陸軍明野飛行学校佐野分校の飛行場建設に伴って、その受益地のすべてを失い、廃池の運命を余儀なくしたのであります。
 
 戦後、村人たちの熱い願望によって、昭和二十六年から三か年の復活工事が行われ、再び、元の雄姿を取り戻したのであります。
 
 いかんせん、半世紀を経て今また、関西国際空港線の敷設によって失われる農地の代替え地を生み出す必要から、池敷きの半分が埋め立てられることになったのであります。
 
 その竣工にあたり、ここに記念の碑文を留め、貝の池の恩沢に、末永く応えんとするものであります。
                平成三年三月吉日

        







郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月28日



長滝の歴史・7
<近世後期から近代>

 長滝は、周辺農村とともに和泉木綿の産地として知られるようになりました。当初は、自家用であったそうですが、その後岸和田藩の奨励もあって、綿花栽培がいちだんと盛んになり、特産品としての和泉木綿が誕生しました。こうして江戸時代に近代紡績業発展の基盤が出来上がりました。

 廃藩置県後、旧岸和田藩領は岸和田県となり、まもなく堺県の管轄となります。やがて堺県も大阪府に組み込まれて、まもなく何度かの改変をへて、近世の村は明治21年(1888)市町村に編成されていきます。
 長滝村は、他村と合併されることなく近世村の範域がそのまま市制町村制下の村として再編成されることになったそうです。

 明治9年の長滝村は、人口1,670人で、大多数が農家であったと見られています。やがて綿業の発展を背景に、近代の泉南地域では紡績業が勃興し、特に佐野周辺では、タオル工業が盛んとなりました。長滝でもタオル製造のための工場が次々と設立され、産業構造は変化し、農家の方が減り、農地が工場にかわるなどの地域の景観も変化していきました。

 かつては今現在よりもっと、芸能興行や盆踊りなどが盛んであったのは、このような地場産業の活況に支えられていたからと言えるそうです。(昔は、長滝中・西・東の三番が三か所別々に盆踊りをしていたそうです。両親の若い頃は、盆踊りなどは、夜通し踊ってにぎやかに過ごしていたそうです。)

 近代の長滝村の出来事として、忘れてはならないのが(ブログの記事でも何回も繰り返しになりますが)、第2次世界大戦のさなかの飛行場建設です。
昭和16年(1941)開戦とほぼ同時に陸軍明野飛行学校佐野分校の飛行場が建設されることになり、佐野町・長滝村を含む1町3村にわたる280haほどが立ち退きを余儀なくされました。多くの田畑・宅地・ため池が買収され、住人が移転を迫られ、また、当蟻通神社も現在地に移転をすることになりました。

 長滝村は、昭和29年(1954)泉佐野市と合併して行政村としては、消滅しましたが、現在も依然自治的なまとまりとして、その重要性は、失ってはいないと言えるそうです。

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蟻通神社の旧社地の風景
上に見えるのは、関空の連絡道路です。


参考文献:長滝の民俗

郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月22日



長滝のため池・貝の池について
<貝の池の歴史>

 ここ泉州地域は、地勢上、河川流域が狭く河川水の利用が不安定なため、ため池による農業用水の確保が盛んに行われ、府下の3分の1の数があるそうです。(平成3年当時)

 長滝に作られた貝の池は特別な特長を持った池ではないのですが、その歩んできた道は、波乱に満ちています。貝の池のある一帯は、河川の取水が容易でないため、用水源となるため池の立地が思わしくなく、長い期間にわたって新田開発から取り残されてきた地域です。近世にいたり、ため池築造に新しい土木技術が加わるようになり、ようやく本格的なため池が生まれ、新田開発への糸口が開かれました。

貝の池の歩みを年表に致します。

・慶長5年(1600)  二つの小池が統合され、新しい貝の池が誕生する。

・寛永5年(1628)  堤垢5尺のかさ置き普請が行われる。

・延宝2年(1679)  再び5尺のかさ置きが行われる。

・弘化2年(1845)  満水位を定めるための定杭が設けられる。

・昭和17~18年   陸軍飛行場の建設に伴い受益地68町部を失うとともに、北堤防部約340メートルが、航空機の着陸障害の理由から切除され、完全な廃池となる。

・昭和22年(1947) 貝の池の受益地を含めた旧飛行場用地は、大蔵省から農林省に所管がえが行われ、開拓財産となる。

・昭和25年(1950) もとの農家に対して開拓地の払い下げが行われ、貝の池の受益地が復帰する。

・昭和26年~29年  貝の池の復活工事。29年3月に完了。この年から水稲作付けが行われる。

・昭和47年~49年  提体改修工事。
   (1972~4)

・平成1~3年      関西国際空港設置敷設に伴う、空港連絡道路用地の代替農地の創出のための池敷2分の1の埋め立てと併せ、残池部の提体改修工事を行う。


 貝の池には、江戸初期の増築以来400年におよぶ歴史が刻まれています。
その長い歴史は、農民の方々の水との関わりの歴史であり水との闘いでもありました。
1度目は、第2次世界大戦時の陸軍明野飛行学校佐野飛行場建設のため受益地を失って廃池となり、敗戦後、復活し整備されます。

 その後、歴史は繰り返されるかのように、2度目は、関西国際空港の空港連絡道路建設に伴い、代替地創出のため、池敷の半分が埋め立てられることになりました
埋め立てについては、地域の人びとの複雑な思いが様々にあって、埋め立ての決議に到達するまでには、長い紆余曲折があったそうです。
 
 貝の池の持つ歩みは、長滝村の歴史とともにあって、村の人びとが大変な苦労をして生活を送ってこられた姿が映し出されています。先人たちが残して下さった自然の恵みの歴史を、忘れないようにしないといけないと思います。

参考文献:「泉佐野市長滝 貝の池
          その歩みととりまく歴史的環境」
       発行:大阪府農地開発公社
       執筆:上田 繁之
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月21日



長滝の歴史・その6
<近世つづき>

近世の長滝村は、稲作農業が主産業であり、水の確保が重要な課題でありました。「ユ」とよばれる村内の湧水が利用されたほか、ため池が築造されて灌漑に活用されていました。

 文禄3年(1594)太閤政権時代のクモツ(菰津)池、慶長5年(1600)植田池、貝の池、寛永3年(1626)沢井家など、長滝の主要なため池は、近世のはじめ、いずれも領主や、幕府の公儀普請でつくられています。しかし、こうした勧農政策にもかかわらず、いったん日照りが続くと、水不足は、深刻な問題となり、周辺村々の間で、水争いが繰り返されたそうです。

 蟻通神社は、慶長年間に再建されましたが、ため池の普請責任者は築造成就を祈願し、成就した後に、石燈籠を奉献され、本殿の近くに現存しています。この燈籠については、いつか紹介させていただきます。
 
 蟻通神社は、江戸時代には、雨乞いの神として、村人が幾度も雨乞い祈願されたという記録が「長滝古記」に記されています。
 寛永8年(1631)の旱魃時には、周辺の村々が祈って霊験があったため、鳥居を奉納されたそうです。

参考文献:「長滝の民俗」泉佐野市史編さん委員会

郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月20日



長滝の歴史・その5
<近世>

 長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新期まで岸和田藩岡部氏の領する所でありました。
 江戸時代初頭は、まだ長滝庄(荘)と呼ばれていたようですが、寛文ごろより長滝村と呼ばれるようになります。
 長滝村は、3つの番に分けられ、それぞれの番に庄屋・年寄が置かれていました。「長滝古記」によりますと、信長の時代に庄屋が仰せつけられましたが、村の有力者は、皆、庄屋になることを嫌がり、結局「宮ノ前形部」という者に一代庄屋を命じられたといいます。
 その後、秀頼の時代に、代官3人を「中番」、「西番」、「東番」と分けておき、以後この3つの番に庄屋3人を配置したものといわれます。
 行政的には、長滝全体が一村されたのですが、それぞれの番に村役人を必要とするほどの広域な村であって、各番の自律性も強いものがあったとみられています。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月17日



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