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蟻通神社について

蟻通神社の歴史

● 古代 [Ancient Time]
神社の創祀は旧記不詳ですが、長滝を含むこの地域は、古くから人々が住み、開拓された所で早くから農耕も始まったとされています。そういった風土、歴史の中で、地域を守る神社として国土開発・五穀豊穣の神様をお迎えしたのではないかと考えられます。その頃は、今のようなご社殿はなく、うっそうとした杜(もり)の中の簡素な佇まいの神社と思われます。
● 平安時代 [Heian Period (8-12c)]
千年以上昔、平安朝の時代に「蟻通明神」として神社の名が世に広まっていくきっかけとなった、2つの故事伝承がありました。 その一つは、紀貫之の歌集に出てくる故事です。貫之が神社を通過する途中、天候が悪化し馬が倒れた際、社頭で和歌を詠じて難を逃れました。歌が神慮を鎮めるという歌徳説話です。 今一つは、清少納言の「枕草子」に記載されている蟻通神社の社名伝承です。その内容は、昔、唐(もろこし)から3つの難題を突きつけられましたが、それを解決したというお話です。その難題の答に、「蟻を使って玉に糸を通す」という説話があります。 神社の表記は、中世以前の文献資料には、「有通神社」と記されています。 蟻通(ありとおし)」という社名をめぐる伝承ですが、「玉に蟻を通す」難題説話と、中世熊野三山参詣の様子が「蟻の熊野詣」と評された熊野街道沿いに神社が立地していたことの2点から、社名が「蟻通」と表記されたのではないかと考えられています。
There are many folk stories and anecdotes related to this shrine, such as the waka poem by Kino Tsurayuki, and the story of a filial lieutenant general, which was introduced in "The Pillow Book" by Sei Shonagon.
Kino Tsurayuki made a waka poem to ask for the deity's forgiveness about 1100 years ago.
Sei Shonagon wrote an essay about the story of Aritoshi Shrine in her famous book, Makura no soshi "The Pillow Book."
● 鎌倉時代 [Kamakura Period (12-14c)]
長滝荘は、貴族の荘園となり、3地域にわかれていました。蟻通神社は、正和5年(1316)の「日根野村絵図」に「穴通社」(蟻の穴通しという意味か)と記されており、長滝荘の中心的神社となりました。
The painting from 1316 of a court noble's private estate ("shoen") in this region shows the existence of a place called "Anatoshisha," which is considered to be the origin of Aritoshi Shrine.
● 室町・戦国時代 [Muromachi to Sengoku (Warring State) Period (14-16c)]
能楽の大成者、世阿弥が、謡曲「蟻通」を作りました。紀貫之が神社に和歌を奉納したとされる歌徳説話を、世阿弥が能に採り上げました。戦国時代、長滝荘は根来寺政権下にありました。天正5年(1577)織田信長の雑賀攻攻めの戦火にかかり神社は建物や、宝物いっさいを失いました。その後、慶長8年(1603)、豊臣秀頼により再建されました。
1.The Great Noh master, Zeami, who was an exclusive Noh performer for Shogunate, wrote a Yokyoku (song for Noh play), titled "Aridoshi."
2.The shrine was destroyed when the famous warlord, Oda Nobunaga, attacked Saiga, but later it was rebuilt by Toyotomi Hideyori.
● 江戸時代 [Edo Period (17-19c)]
長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新期迄、岸和田藩領となりました。万治2年(1659)岸和田藩主岡部宣勝公(初代)の命により、神宮寺宗福院も建立され、神職と社僧が祭祀する南泉州地域有数の神社としての陣容が整いました。歴代藩主の保護厚く、時にご社参され祈願を為し、数々の神宝・祭具・土地をご寄進されました。とりわけ、近在の村々を含めた南泉州地域の主要な祈雨(雨乞い)の神社として重視されていきました。
This area as well as the shrine was included in the territory of Kishiwada Domain in 1640.
The lord of Kishiwada Domain patronized Aritoshi Shrine as an important shrine to pray for rain.
Shrine structures, such as the main hall, Kagura dance hall, and the votive tablet hall, were donated by the lord.
● 明治・大正時代 [Meiji to Taisho Period (19c)]
明治維新の国家神道の高唱、「神仏分離令」によって、宮寺宗福院は、廃寺となり、取り壊されました。表門は、西の番「清福寺」に残されています。 明治40年からの神社合祀により、村内にあった神社が合祀され、祀られています。 大正6年に、村社から郷社となりました。
1.Meiji: Sofukuin Temple, a Miyaji temple (an affiliated temple) of Aritoshi Shrine was abandoned due to the national government's policy of "Separation of Shinto and Buddhism."
2.Taisho: in 1917, the rank of the shrine was raised to "Gosha" from "Sonsha."
● 昭和時代 [Showa Period (20c)]
昭和16年(1941)第2次世界大戦勃発。翌年、佐野町、日根野村、安松村、長滝村にまたがる一帯は、陸軍明野飛行学校佐野飛行場が建設され、田畑、ため池、一部集落も強制移転を余儀なくされました。 このとき、蟻通神社も移転の運命にあり、現在地に移ることになりました。 長滝村の人々をはじめ、宮司、神社世話人、の無念と失望は計り知れず、また、若者を戦地に出した後での移転作業は、大変な苦労の連続だったと記録されています。 境内面積は狭くなりましたが、社殿・舞殿・門・灯籠などの建造物は、村の方々により、ほぼ元通りに配置されました。 昭和19年8月遷座を終了しましたが、移転後1年で敗戦となったのでした。 昭和43年(1968)、明治100年記念として、鳥居、弁財天社、仏足石、八百万の神等を整備し、また併せて紀貫之冠之渕を境内に整えました。
Showa: the shrine was moved by the Army to the present site, with the construction completed in 1944.
● 現在 [Present]
平成5年(1993)神社移転後50周年記念として、大勢の氏子の皆様から石玉垣を奉納頂きました。 時代が進んだ現代も、氏子崇敬者の方々による宮座(敬老社人)が置かれ、「ありとおしさん」「おみやさん」と親しまれ、地域の方々の心の故郷(ふるさと)となっています。 また、和歌・能楽の関係者、歴史愛好家をはじめ、遠方の方々からも篤い信仰を寄せて頂いております。
To commemorate the 50th anniversary of the relocation of the shrine in 1993, a large number of parishioners dedicated Ishitamagaki.

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