蟻通神社(ありとおしじんじゃ)
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蟻通神社の歴史

神社の創祀は旧記不詳ですが、社伝によりますと第9代開化天皇の御宇勧請とされています。 長滝を含むこの地域は、古くから人々が住み、開拓された所で早くから農耕も始まったとされています。そういった風土、歴史の中で、地域を守る神社として国土開発・五穀豊穣の神様をお迎えしたのではないかと考えられます。その頃は、今のようなご社殿はなく、うっそうとした杜(もり)の中の簡素な佇まいの神社と思われます。

千年以上昔、平安朝の時代に「蟻通明神」として神社の名が世に広まっていくきっかけとなった、2つの故事伝承がありました。 その一つは、紀貫之の歌集に出てくる故事です。貫之が神社を通過する途中、天候が悪化し馬が倒れた際、社頭で和歌を詠じて難を逃れました。歌が神慮を鎮めるという歌徳説話です。 今一つは、清少納言の「枕草子」に記載されている蟻通神社の社名伝承です。その内容は、昔、唐(もろこし)から3つの難題を突きつけられましたが、それを解決したというお話です。その難題の答に、「蟻を使って玉に糸を通す」という説話があります。 神社の表記は、中世以前の文献資料には、「有通神社」と記されています。 蟻通(ありとおし)」という社名をめぐる伝承ですが、「玉に蟻を通す」難題説話と、中世熊野三山参詣の様子が「蟻の熊野詣」と評された熊野街道沿いに神社が立地していたことの2点から、社名が「蟻通」と表記されたのではないかと考えられています。

長滝荘は、貴族の荘園となり、3地域にわかれていました。蟻通神社は、正和5年(1316)の「日根野村絵図」に「穴通社」(蟻の穴通しという意味か)と記されており、長滝荘の中心的神社となりました。

能楽の大成者、世阿弥が、謡曲「蟻通」を作りました。紀貫之が神社に和歌を奉納したとされる歌徳説話を、世阿弥が能に採り上げました。戦国時代、長滝荘は根来寺政権下にありました。天正5年(1577)織田信長の雑賀攻攻めの戦火にかかり神社は建物や、宝物いっさいを失いました。その後、慶長8年(1603)、豊臣秀頼により再建されました。

長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新期迄、岸和田藩領となりました。万治2年(1659)岸和田藩主岡部宣勝公(初代)の命により、神宮寺宗福院も建立され、神職と社僧が祭祀する南泉州地域有数の神社としての陣容が整いました。歴代藩主の保護厚く、時にご社参され祈願を為し、数々の神宝・祭具・土地をご寄進されました。とりわけ、近在の村々を含めた南泉州地域の主要な祈雨(雨乞い)の神社として重視されていきました。

明治維新の国家神道の高唱、「神仏分離令」によって、宮寺宗福院は、廃寺となり、取り壊されました。表門は、西の番「清福寺」に残されています。 明治40年からの神社合祀により、村内にあった神社が合祀され、祀られています。 大正6年に、村社から郷社となりました。

昭和16年(1941)第2次世界大戦勃発。翌年、佐野町、日根野村、安松村、長滝村にまたがる一帯は、陸軍明野飛行学校佐野飛行場が建設され、田畑、ため池、一部集落も強制移転を余儀なくされました。 このとき、蟻通神社も移転の運命にあり、現在地に移ることになりました。 長滝村の人々をはじめ、宮司、神社世話人、の無念と失望は計り知れず、また、若者を戦地に出した後での移転作業は、大変な苦労の連続だったと記録されています。 境内面積は狭くなりましたが、社殿・舞殿・門・灯籠などの建造物は、村の方々により、ほぼ元通りに配置されました。 昭和19年8月遷座を終了しましたが、移転後1年で敗戦となったのでした。 昭和43年(1968)、明治100年記念として、鳥居、弁財天社、仏足石、八百万の神等を整備し、また併せて紀貫之冠之渕を境内に整えました。

平成5年(1993)神社移転後50周年記念として、大勢の氏子の皆様から石玉垣を奉納頂きました。 時代が進んだ現代も、氏子崇敬者の方々による宮座(敬老社人)が置かれ、「ありとおしさん」「おみやさん」と親しまれ、地域の方々の心の故郷(ふるさと)となっています。 また、和歌・能楽の関係者、歴史愛好家をはじめ、遠方の方々からも篤い信仰を寄せて頂いております。
蟻通神社にゆかりのお話

「貫之集」新潮日本古典集成より

紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、 「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり
← 中島裕司 筆 「紀 貫之」

平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。
貫之が奉能した和歌。「貫之集」より
意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。


枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より

社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。
 
蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさわぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。

唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。

五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。

ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととう穴のあなたの口に出でにけり。 さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。

この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、 「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。  
さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。    


とのたまひけると、人の語りし。

紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。  当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。 後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。
歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」
○ 日本に出された三つの難題と答

一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?
答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。

二、蛇の雌雄の見分け方?
答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。

三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法
答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。

中島裕司 筆 「蟻通明神の縁起」


神社舞殿にて、独鼓「蟻通」奉納

・作者 世阿弥 ・場所 和泉国 蟻通神社
・能柄 四番目物 ・人物 ワキ  紀貫之
・典拠 貫之集 ・人物 ワキツレ  従者
・時 平安時代(四月) ・人物 シテ  宮守
          
能『蟻通』小学館日本古典文学全集より抜粋
和歌の心を道として、和歌の心を道として、玉津島に参らん。 これは紀貫之にて候。われ和歌の道に交はるといへども、いまだ玉津島に参らず候ふほどに、 ただいま思ひ立ち紀の路の旅にと心ざし候。 夢に寝て、現に出づる旅枕、夜の関度の明暮に、都の空の月影を、さこそと思ひやる方も、雲居は跡に隔り、暮れわたる空に聞ゆるは、里近げなる鐘の声、・・・・・・以下省略
<能『蟻通』のストーリー>
紀貫之とその従者は、玉津島明神参詣の旅に出ます。その途中、急に日が暮れ大雨が降り、馬が病に倒れ伏します。貫之が途方にくれていると傘をさし松明を持った宮守が現れます。 ここは、蟻通明神で、下馬せずに通ろうとしたために神の怒りに触れ、咎められたに違いないと語り、和歌を詠んで神の心を慰めるようにと勧めます。貫之が歌を詠むと馬が元気になって立ち上がります。宮守は、貫之に促されて神楽を舞ううち、明神が宮守に憑いて貫之が和歌に寄せる志に感じて姿を見せた後、鳥居の笠木に隠れ、姿を消しました。 夜が明けると貫之は、再び紀の国へと旅立って行きました。
・この能の中で、貫之が詠んだ和歌。貫之集記載の歌と、上句が違っています。

意味:雨雲の一面にたちこめている夜中のことなので、まさか空に星が出ていようとは思いません。
この暗闇で、まさかここに蟻通明神のお社があろうとは気がつきませんでした。


<泉佐野市史編さん委員会 平成8年 「泉佐野市史研究第2号」より>
神社の移転は、第二次世界大戦時、陸軍明野飛行学校佐野分教所建設によるものでした


昭和16年(1941) 第二次世界大戦勃発、飛行場建設の通告
昭和17年(1942) 飛行場建設工事始まる。蟻通神社移転先での地鎮祭
田畑、池、家屋、工場の買収はじまる。住民の移転始まる
昭和18年(1943) 第二期拡張計画
昭和19年(1944) 明野飛行学校佐野分教所開設。蟻通神社、現在地に遷座完了
昭和20年(1945) 終戦
          

陸軍は、当時の佐野町・日根野村・長滝村・南中通村の1町3村に飛行場の建設を通告しました。これは農地、ため池、集落をつぶす広大なものでした。神社、墓地、民家の強制移転が行われ、翌年から建設工事が突貫で進められました。1500mの滑走路が海岸線と直角に作られ、この敷地は、南海本線泉佐野・羽倉崎、JR日根野・長滝の四つの駅に囲まれていました。 滑走路の中央を南北に縦断して熊野街道(紀州街道)が通り、その道沿いに蟻通神社があったことが分かっています。

千年以上の歴史を持つ神社を移転させなければならなかった地元の方々、神社関係者の無念は、計り知れないものがありました。昭和20年(1945)に関係者が神社の境内に建てた「蟻通神社移転記念碑」には、当時の思いが込められています。若者を戦場に出した後の移転の作業は、大変な苦労の連続だったと記録されています。
昭和19年(1944)に遷座が完了されます。冠之渕もその当時移転して現在の位置に移りました。社殿、舞殿、回廊その他の配置はほぼ元の通りですが、面積、長さは随分縮小されました。
<長滝村の方の移転時の記録>  
夜深更新しく造った神輿にご神体を乗せ白い装束で身を包んだ世話人が交代で肩にかつぎ、昔の表馬場から村中を通り、天王(現在地の旧地名)までの道筋には、順次にむしろを敷きつめその上を静々「ほうほう」とけいひつの声を上げながら、夜の静まりを分けて神移りに移し申し上げたが、其の森厳な雰囲気は、未だに忘れることが出来ないという当時奉仕した方のお話。

<当時高校生だった村の方の日記>
紀貫之が歌を献じ、「枕草子」にも登場したという由緒をもち、地元で崇敬されてきた神社や、「蟻の熊野詣」と言われた熊野街道の景観や集落が消えて消滅してゆくことへの愛惜と、「お国のために」と思う複雑な気持ちを書かれています。
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