蟻通神社ブログ
神職の装束(しょうぞく)について
<祭祀に着用する服装には、きちんとした規定があります。>
古く、男子服は、「袈裟式」といって、一枚の裂地を左肩から懸けて、右腋下で両端を結び合わせたものです。女子服は、「貫頭衣」といって、これも一枚の裂地を、その真中で穴をあけその穴に首を入れて、前後に垂れたものであったそうです。今も最上衣として原形をとどめているのは、小忌衣(おみごろも)・ちはや・うちかけです。男女ともに一枚の裂地から進化して、上衣・下衣の二つのものとなりました。男子は、「衣(きぬ)」「袴(はかま)」で女子は、「衣(きぬ)」「裳(も)」であります。
推古の朝に、始めて大小六種(徳・仁・礼・信・義・智)十二階の冠制が定められ、その後文武天皇の大宝令で冠服の制度が確立されました。男子服は束帯・衣冠の類で、女子服は、五衣・唐衣・裳・うちき・袴の類です。
この冠服の制は中国の模倣でしたが、遣唐使が廃止されてから平安中期以降、日本独自の装束が発達し、明治維新までつづきました。明治になって、大宝令の礼服は、全廃され、束帯衣冠以下の装束は、祭祀専用の儀服となり、その後、朝廷の儀服は洋服制を採用されました。
現在、神社で用いる装束は、男子は衣冠単・斎服・狩衣・淨衣の4種類で、女子は、うちき・袴と水干の2種類です。 それぞれ、祭祀の種類によって、着装するものが定められています。また、色や布地・紋などは、神職の身分、階級によって決まりがあります。
皆様が、初宮詣でや厄除け祈願、家内安全、交通安全等のご祈祷に神社にお参りに来られたときに、目にされている装束は、男子では、狩衣(かりぎぬ)といいます。 はかまは、一番下の階級から順に浅黄(水色)・紫・紫に紋・紫に白い紋・白に白い紋という決まりがあります。いろいろな神社にご参拝されたときに、袴の色にも注目なさってみてください。
私が神職の資格を頂いて、初めて正式に祭祀用の装束を着けた時は、大変うれしくて、身が引き締まる思いがしたのを覚えています。
【下の写真が、狩衣で、袴は、紫の無地です。】
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月31日
2週間ぶりにブログを更新致します。
<東北関東大震災> この度の、震災で被災された皆様方に心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復興をお祈りいたします。
実際に大災害の苦難を経験していない私が、言える言葉は本当に何もなくて、ただ、義援金を募金させていただき、ニュースや新聞を通して、常に応援をしていますという気持ちを持ち続けることぐらいなのが心苦しいです。
被害に遭われた皆様に、普通の当たり前の日常が早く戻ってくることを願っております。
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月28日
春なのに寒いですね。
< 春 の語源とは >
太陰太陽暦(旧暦)に記された二十四節気では、立春(二月四日頃)から立夏の前日(五月五日頃)までをいいます。
現行の太陽暦(新暦)では、三月から五月までをさします。
また天文学上では、春分から夏至までを春としています。
春【はる】の語源は◎「万物、発(は)る候なればいうという」という説(大槻文彦『大言海』)や、
◎「草木の芽が『張る』意、 また田畑を『懇(は)る』意、 気候の『晴る』意から」という説(新村出『広辞苑』)などがあるそうです。
先日の三月六日は、二十四節季の啓蟄(けいちつ)でした。この頃になると、いろいろな虫が穴を啓(ひら)いて地上へ這い出してくるというところから啓蟄と呼ばれます。
本当は、まだまだ寒い時節ではありますが、日足も目に見えるように長くなり、日の光に中に春を強く感じるようになってきましたね。啓蟄の蟄(ちつ)は、(ちゅう)の慣用読みで虫などが土中に隠れている意だそうです。
私が「春」というと思い出すのが、何といっても清少納言の枕草子の第1段です。
明かりて、紫立ちたる雲の
細くたなびきたる。夏は、夜。・・・・・・・・・』
で始まる名文として名高い文章です。
中学生の時の国語の時間に教わって、先生の前で一人ずつ 暗唱のテストがあり、覚えた記憶が鮮明に残っています。 その時は、子どもだったので、特段意味もわからず、日本語の響きの良さを感じる心も持っていなかったのですが、大人になってもその時のことが、強く印象に残っているというのは、自分にとっては、心地よい時間だったのかなと思います。(その反面、数学の公式などは、頭の片隅にも残っていなくて、情けないです。)
この寒さも土曜日までで、13日の日曜日からは、暖かくなってくるそうです。母が毎年、「東大寺のお水取りが終わったら暖かくなるよ」 と言っているのですが、本当にそのようです。 私は、まだお水取りの行事を拝見したことがないのですが、一度お参りしたいなと思っています。
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月10日
お伊勢まいりその2
<神宮におまいりして>
五十鈴川の宇治橋の手前の鳥居
天照大御神は「五十鈴の川上に鎮座した」と伝えられています。五十鈴川は、皇大神宮を俗界から隔絶していると考えられています。内宮は、簡単に近づくことができない神聖な土地で、鎮座当初は、宇治橋は、存在しなかったそうです。 最も尊い大御神に対しては、「敬して遠ざく」という日本人の神聖観が根本にあるからだそうです。本当に神聖なるものは、極力触れないようにする態度、それに触れないからこそ神聖であり、みだらに窺い、語らないからこそ聖なる価値が守られるということです。
今回、神宮におまいりした写真を撮らせていただきましたが、本当は、畏れ多いことなのかもしれません。なんでもオープンにし、カメラを向けなければ気が済まない現代人の感覚を少し改めて、深い慎みの心を取り戻さねばならないですね。
宇治橋の起源は定かではないそうですが、存在が確認できる最古の文献は、室町時代の書物に記されているそうです。 当初、神宮は、皇室の祖先神をお祀りしていているので、個人が、随時参拝するような場所ではなかったそうです。しかし、時代が降りると庶民の伊勢参宮が行われるようになり、橋が必要とされ、出現したのが宇治橋です。
この橋をわたることで、聖なる領域に庶民が立ち入ることができるようになり、国民全ての親神として親しまれる場所となっていったのです。
小学校の修学旅行ではじめて伊勢神宮におまいりして以来、何度かご参拝させて頂いています。大人になるずつ、一つ一つのものに、尊い歴史があって、たくさんの人の御心で優れた伝統が引き継がれてきたことをもっと知りたいなと思うようになりました。
神宮の広い長い参道を歩いて、御正宮の前に立つと、あまりにも荘厳で、言葉に表現できない神々しさ、清々しさを感じました。大変、気持ちの良い一日でした。 参考文献:「お伊勢さんの遷宮」・「宇治橋ものがたり」
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月07日
伊勢神宮にお参りに行ってきました。
<伊勢の神宮> 伊勢神宮は日本人の心のふるさとといわれます。正式名称は、「神宮」といいます。それは、もっとも尊いお宮だからです。宇治の五十鈴川の川上にある皇大神宮(内宮)と山田原にある豊受大神宮(下宮)の両大神宮を中心として、14所の別宮、43所の摂社、24の末社、42所の所管社があります。
「神宮」はこれら125の宮社の総称でもあります。お伊勢まいりの順序は、外宮から内宮へというのが正式で、天皇陛下や皇族方のおまいりも外宮が先です。
「外宮」・・・天照大神(あまてらすおおみかみ)のお食事を司る神の豊受大神(とようけおおみかみ)をおまつりしています。内宮創建から500年後に山田原(やまだのはら)に迎えられました。衣食住をはじめ、あらゆる産業の守り神です。
「内宮」・・・皇室のご祖神の天照大御神をおまつりする、わが国で最も尊いお宮です。五十鈴川の川上に千古の森に囲まれて、2000年の時を超えて古代のたたずまいを今日に伝えています。
「第62回式年遷宮」・・・平成25年には、遷御の儀が予定されています。式年遷宮とは、20年に一度新しい神殿を造営し、御装束・神宝をととのえ、大御神様におうつり願う儀式です。この制度は、天武天皇のご発意により、次の持統天皇の御代から、国家最大の重儀として1300年にわたり続けられています。大御神の新しい御光をいただいて、国も人も共に若々しくありたいと願う永遠の発展への祈りがこめられています。長い歴史と伝統のある極めて重要な祭儀であります。 蟻通神社の氏子崇敬者の皆様からも第62回式年遷宮にたくさんのご奉賛を頂戴いたしまして、ありがとうございました。皆様もぜひ、神宮にご参拝にいらしてみて下さい。
写真撮影の ご許可を頂いたものをご紹介いたします。
近鉄特急で伊勢市到着
最初に外宮におまいり致しました。 手水舎で心身のお清めを
外宮の御正殿
ここからは、内宮です。平成21年に掛け替わったばかりの宇治橋
大正天皇御手植の立派な松がある神苑
五十鈴川御手洗場
樹齢何百年と思われる大きな木々がいっぱい
内宮の御正宮(大勢のご参拝の方々) 一般参宮は、白絹の御幌の前で心静かにお参りします。
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月06日