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蟻通神社ブログ

 蟻通神社の能舞台について

<江戸時代に建立された能舞台>

 平安時代後期に、長滝は、長滝荘という荘園になり、上東門院(藤原彰子)、東北院(三条天皇中宮)などの手を経て、藤原氏の采地になっています。

 宮内庁に所蔵される鎌倉時代の末期の荘園絵図には、熊野街道近くに杜に囲まれ「穴通(あなとおし)」と記されいます。この時代から室町時代の荘園には、自治的な村(惣村)が成立し、神社は、村人が結集し、加護をうける重要な場所となっていました。

 中世末になると根来寺の勢力圏に入ります。長滝荘は、鎌倉武士の木戸(山内)氏が押領として、在地の軍事・警察権を握っていましたが、永正6年(1509)根来寺衆徒長、長滝荘惣分代官、蟻通明神・大井関明神の目代を根来寺から任命されています。

 戦国時代、石山本願寺と結び付いた紀伊雑賀衆・根来寺が織田・豊臣政権と対立し、根来寺の勢力圏にあった長滝の禅興寺、蟻通神社もこの時期戦火をまぬがれずに天正5年(1577)消失してしまいます。

 隣の日根荘領主九条政基(1501年〜三年間滞在)の日記に村人の盂蘭盆会の風流や祭礼の猿楽の様子に驚嘆したことが書かれています。鎮守の神の神意をなぐさめ、村人が演じ観賞する芸能が普及し、京の都から遠く離れた土地であるのに、農民の中に能者がいたことがわかります。

 神社焼失後、慶長17年(1612)に神社は再建され、和歌や能楽、雨乞いの神社として広まります。古書に、元和6年(1620)ご再興の儀でお能が奉納されたと書かれています。能舞台の建立は、寛永5年(1628)にされ、それまでは、お能の時、岸和田より舞台船にてまいり、組み立てて行われたそうです。

 長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新まで岸和田藩主岡部氏の領するところでありました。大阪夏の陣での再度の焼失後、万治3年(1660)年に岸和田藩主岡部宣勝候により再興されました。能舞台もその時再建されたのであろうと思われます。

参考文献:「長滝古記」
       「長滝の民俗」


●移転前の能舞台(舞殿)です。

能舞台.jpg

おそらく、昭和初期に撮影されたと思われます。
昔は、茅葺きの屋根でした。
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月19日

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