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蟻通神社ブログ

長滝のため池・貝の池について
<貝の池の歴史>

 ここ泉州地域は、地勢上、河川流域が狭く河川水の利用が不安定なため、ため池による農業用水の確保が盛んに行われ、府下の3分の1の数があるそうです。(平成3年当時)

 長滝に作られた貝の池は特別な特長を持った池ではないのですが、その歩んできた道は、波乱に満ちています。貝の池のある一帯は、河川の取水が容易でないため、用水源となるため池の立地が思わしくなく、長い期間にわたって新田開発から取り残されてきた地域です。近世にいたり、ため池築造に新しい土木技術が加わるようになり、ようやく本格的なため池が生まれ、新田開発への糸口が開かれました。

貝の池の歩みを年表に致します。

・慶長5年(1600)  二つの小池が統合され、新しい貝の池が誕生する。

・寛永5年(1628)  堤垢5尺のかさ置き普請が行われる。

・延宝2年(1679)  再び5尺のかさ置きが行われる。

・弘化2年(1845)  満水位を定めるための定杭が設けられる。

・昭和17~18年   陸軍飛行場の建設に伴い受益地68町部を失うとともに、北堤防部約340メートルが、航空機の着陸障害の理由から切除され、完全な廃池となる。

・昭和22年(1947) 貝の池の受益地を含めた旧飛行場用地は、大蔵省から農林省に所管がえが行われ、開拓財産となる。

・昭和25年(1950) もとの農家に対して開拓地の払い下げが行われ、貝の池の受益地が復帰する。

・昭和26年~29年  貝の池の復活工事。29年3月に完了。この年から水稲作付けが行われる。

・昭和47年~49年  提体改修工事。
   (1972~4)

・平成1~3年      関西国際空港設置敷設に伴う、空港連絡道路用地の代替農地の創出のための池敷2分の1の埋め立てと併せ、残池部の提体改修工事を行う。


 貝の池には、江戸初期の増築以来400年におよぶ歴史が刻まれています。
その長い歴史は、農民の方々の水との関わりの歴史であり水との闘いでもありました。
1度目は、第2次世界大戦時の陸軍明野飛行学校佐野飛行場建設のため受益地を失って廃池となり、敗戦後、復活し整備されます。

 その後、歴史は繰り返されるかのように、2度目は、関西国際空港の空港連絡道路建設に伴い、代替地創出のため、池敷の半分が埋め立てられることになりました
埋め立てについては、地域の人びとの複雑な思いが様々にあって、埋め立ての決議に到達するまでには、長い紆余曲折があったそうです。
 
 貝の池の持つ歩みは、長滝村の歴史とともにあって、村の人びとが大変な苦労をして生活を送ってこられた姿が映し出されています。先人たちが残して下さった自然の恵みの歴史を、忘れないようにしないといけないと思います。

参考文献:「泉佐野市長滝 貝の池
          その歩みととりまく歴史的環境」
       発行:大阪府農地開発公社
       執筆:上田 繁之
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月21日



長滝の歴史・その6
<近世つづき>

近世の長滝村は、稲作農業が主産業であり、水の確保が重要な課題でありました。「ユ」とよばれる村内の湧水が利用されたほか、ため池が築造されて灌漑に活用されていました。

 文禄3年(1594)太閤政権時代のクモツ(菰津)池、慶長5年(1600)植田池、貝の池、寛永3年(1626)沢井家など、長滝の主要なため池は、近世のはじめ、いずれも領主や、幕府の公儀普請でつくられています。しかし、こうした勧農政策にもかかわらず、いったん日照りが続くと、水不足は、深刻な問題となり、周辺村々の間で、水争いが繰り返されたそうです。

 蟻通神社は、慶長年間に再建されましたが、ため池の普請責任者は築造成就を祈願し、成就した後に、石燈籠を奉献され、本殿の近くに現存しています。この燈籠については、いつか紹介させていただきます。
 
 蟻通神社は、江戸時代には、雨乞いの神として、村人が幾度も雨乞い祈願されたという記録が「長滝古記」に記されています。
 寛永8年(1631)の旱魃時には、周辺の村々が祈って霊験があったため、鳥居を奉納されたそうです。

参考文献:「長滝の民俗」泉佐野市史編さん委員会

郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月20日



長滝の歴史・その5
<近世>

 長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新期まで岸和田藩岡部氏の領する所でありました。
 江戸時代初頭は、まだ長滝庄(荘)と呼ばれていたようですが、寛文ごろより長滝村と呼ばれるようになります。
 長滝村は、3つの番に分けられ、それぞれの番に庄屋・年寄が置かれていました。「長滝古記」によりますと、信長の時代に庄屋が仰せつけられましたが、村の有力者は、皆、庄屋になることを嫌がり、結局「宮ノ前形部」という者に一代庄屋を命じられたといいます。
 その後、秀頼の時代に、代官3人を「中番」、「西番」、「東番」と分けておき、以後この3つの番に庄屋3人を配置したものといわれます。
 行政的には、長滝全体が一村されたのですが、それぞれの番に村役人を必要とするほどの広域な村であって、各番の自律性も強いものがあったとみられています。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月17日



長滝の歴史・その4
<中世後期>  
 宮内庁書陵部に保存されている古文書の中に、鎌倉時代後期の正和5年(1316)に作成された日根野村絵図があります。日根野村の原野の開発許可をうけるために作られたものらしいですが、この中に、長滝荘・禅興寺・穴通描かれています。

 禅興寺は、大門、講堂、三重塔、本堂などが塀に囲まれている絵で、大規模な寺院であったことがわかります。長滝荘の松林の中にお社と鳥居が描かれ、そこに「穴通」と書き込まれています。これは、「蟻通」を聞き違えて誤記したものではないかとされています。

 蟻通神社には、現在も宮座が存在いたします。この宮座は、中世に荘園ができ、惣が形成された時代に生まれたものとみられていますが、同宮座のことを記す最も古い史料は寛永年間のものであり、確たることはわからないそうです。

 中世末になると、泉南は紀伊国根来寺の勢力圏に入ります。長滝荘は、鎌倉武士の木戸(山内)氏が押領として在地の軍事・警察権を握っていましたが、同氏は永正6年、根来寺衆徒長、長滝荘惣分代官、蟻通明神・大井関明神の目代を根来寺から任命されています。現在、中の番にある中の宮神社は、この山内氏の氏神であったと伝えられています。

 織豊政権期には、石山本願寺と結びついた紀伊雑賀衆・根来寺が、織田・豊臣政権と対立します。このため、根来寺の勢力下にあった長滝の禅興寺および蟻通神社もこの時期戦火をまぬがれず、焼失してしまいます。長滝の地蔵堂は、廃禅興寺の敷地内に残った古碑や石仏を後に1ヶ所にあつめ、堂宇を建立して祀ったものとされています。堂宇の周辺には、善興寺、寺前川、大門などの地名もあり、蓮華紋瓦も出土しているそうです。


参考文献:長滝の民俗
       蟻通神社と長滝
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月08日



長滝の歴史・その3
<平安時代>

 平安時代後期に入ると、長滝の地は、荘園となり、上東門院(藤原彰子)、東北院(三条天皇中宮)などの手を経て、藤原氏の采地になっている。

 長滝荘は、包富名(かねとみみょう)、弥富名(やとみみょう)にわかれ、その近くには、別に禅興寺の寺領がありました。

 禅興寺は最盛時は、僧80人余り、寺領900石と称した大きな寺であったらしく、長滝の永福寺には、かつて禅興寺のものだったという仏像も伝わっています。この包富名、弥富名、禅興寺領の3地域が、後の西の番、中の番、東の番の起源と見られています。

 中世後期には、荘園内部に名主層の惣結合が生まれるが、荘園領主はそうした惣仲間の有力者を番頭に任じ、この番頭に給田を与えるとともに、番頭を通じて年貢の徴収や支配をおこなっていました。いわゆる番頭制荘園でありますが、長滝荘にも3人の番頭が存在していて、これが3つの「番」の直接的始源であるそうです。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月08日



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