蟻通神社ブログ
秋祭り「だんじりの歌について」
<あすは、いよいよ秋祭りの宵宮です。>
お天気になりそうなので、良かったです。今では、大変な賑わいで人気のある地車ですが、1960年代中ごろから80年ごろは、人気がなかったそうです。青年団の参加者が少なく、自動車でひっぱったことなどもあったといわれています。
また、1960年代の中ごろまでは、長滝の道は舗装されていなくてガタガタで地車も走らなかったようです。その後、道路が舗装され、やっとスピードが出るようになりました。岸和田のお祭りが全国的に有名になり、その影響もあってだんだんと地車の人気が出て、毎年大勢の人で賑わうようになりました。
本宮の午後からは(今年は、9日)、パレードも行われるようになり、やり回しやスピードを出して勢いよく曳く様子を見ることができ、パレードが行われる周辺の道路は、大勢の観客でいっぱいになります。
私が子どもの頃、地車を曳きながら歌われていた歌があります。その当時は、歌の意味が全く分からなかったのですが、「長滝の民俗」に歌詞が載っていました。
牡丹に唐獅子竹に虎 虎追うて走るはまとうない(和藤内) まとないお方に知恵貸そか 知恵の 中山せんがん寺 せんがん寺の 和尚さん 坊さんで べらべらべらしゃっしゃ 西の番のだんじりは 彫り物ようて かじとりじょうずで よく走る
現在でも歌われているのかどうかは分かりませんが、どこから伝わったのか面白い歌詞です。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年10月07日
秋祭り「だんじり」について・その6
<長滝中の番のだんじり>
長滝中の四ツ屋根地車を岸和田の大工町から購入したのは、明治23年(1890)です。今から121年ほど前になります。この地車が、1862年に作られてからわずか28年ほどで、長滝へやってきたのは、「皮むき」等の手入れの時期がきたことと、上下動させるという仕組みのあるものよりも、より頑丈で、強い地車が岸和田では、望まれてきたからだそうです。
その頃、中の番では、地車を熱望する住民の声が高まってきていて、待望の地車購入の機会が到来したのです。氏神である蟻通神社に地車を曳きいれ社殿に参拝するためには、大屋根を上下動できうるものが望ましかったのです。
発起人の村の役員さん、住民の方々が浄財を拠出し、大変な思いで四ツ屋根地車を購入することになりました。先日、ニュースで、地車を新調された町の方々が新しい地車を曳いている場面が流れていました。新規購入され、費用は、2億円だそうです。町の代表の方が、「地車は町の宝です。」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思いました。
さて、明治の時代に地車を岸和田からどうやって運んできたのでしょうか?現代は、トレーラーなどに載せることができますが、明治23年頃は、トレーラーなどないので、なんと岸和田から地車を(牛も参加)曳いてきたそうです。この日は、長滝中の番総出の大行事で、ご婦人方は、早朝からおにぎりや煮しめを作り、それを持って村の人々は、佐野と貝塚の境界のあたりまで出迎えに行きました。蟻通神社で地車の入魂式が執り行われ、村の人々は歓声を上げて喜ばれたそうです。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年10月04日
秋祭り「だんじり」について・その5
<2011.10.2 今日は、試験曳きでした。>
去年は雨で参加されている方は、大変でしたが、今年は、ちょうど過ごし易い、良いお天気でした。私は、生まれた時から、この土地に住んでいるので、太鼓と笛の音が聞こえてくるとワクワクして、思わず走って見物に行きました。お祭り本番の日もお天気だとよいのですが・・・。
長滝東の番
長滝西の番
長滝中の番
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年10月02日
秋祭り「だんじり」について・その4
<長滝中のまぼろしのだんじり>
蟻通神社の氏子地域は、長滝東の番・長滝中の番・長滝西の番の3町です。同じ長滝という地名が付くのですが、それぞれ別の町のように独立した自治運営をされています。だんじりもそれぞれ、1台ずつあって由緒も様々です。その中で、今回は長滝中の番のだんじりを採り上げたいと思います。
長滝中のだんじりは、まぼろしのだんじりとして、だんじり愛好者の方々の中では、知る人ぞ知るだんじりなのです。 そのだんじりについて書かれている資料は、泉佐野の歴史と今を知る会の北山理先生著「百人の佐野物語第6集・泉佐野の祭りと盆踊り」、
泉佐野教育委員会編集「泉佐野の祭り」、
長滝中の番町内会、地車修理推進委員会発行「泉佐野市長滝中の番四ツ屋根地車の由緒」です。
幻の地車発見の経緯は、昭和47年岸和田市制50周年に、市のダンジリ愛好者の方々が、地車のルーツを調査されたことがきっかけだそうです。研究熱心な人々は、泉南、泉北の泉州地方に200台近くあるといわれる地車をくまなくあたり、その制作年代、形態、彫刻等をもつぶさに調査されました。 岸和田市の地車研究家の方が、昔、岸和田の本町と大工町の地車は四ツ屋根であったと研究結果に載せられていました。そのことをたどり、何人もの人を介して、長滝中の地車は、大工町から購入したということがわかりました。
愛好者の方々が、長滝に来られ、各部分の写真を撮り、詳細に調査され、古老の話などを総合して、幻の四ツ屋根地車であると断定されました。
またその後、この地車の設計絵図面が発見され、大工町の地車であることが証明されました。
その図面には、大工町檀尻 五分壹図 文久二壬戌九月 作之 梶治三郎重忠(花押) と墨書されていたそうです。
昭和49年5月〜6月に「まぼろしの四ツ屋根地車見つかる。しかも原型の姿で見つかった。」と四大新聞に掲載されました。
<なぜ、まぼろしなのか?>
元禄年間、当時の岸和田藩主岡部長泰公は、領民の曳く地車が城郭内の神社に参拝することを許可したと伝えられています。 当初は現在のような豪華で優美な彫刻をめぐらせた楼閣をおもわすようなものではなかったですが、祭の日は、町民が、地車を曳き歓声を上げて城内へ入り、神社の参拝を終えて大手門より退城したと伝えられています。城下町の繁栄につれて地車は、年々その数を増やし、その姿形も名工・名匠たちの苦心工夫の結果、豪華絢爛たるものになってきました。 嘉永4年岸和田藩が幕府の命令によって、日光の東照宮の改築にあたるため大工、彫刻師等が、大勢日光へ赴きました。これらの技術者たちが日光の陽明門の華麗さに魅せられて、帰国し、やがて地車にその姿を取り入れたものであろうと伝えられています。
中の番の地車(当時は、岸和田大工町のもの)もその頃作られました。数ある中で、当時でも珍しい四ツの破風のある名匠苦心の作による優美な四ツ屋根地車は、目立ったと思われます。四ツ屋根とは、屋根が四ツ有るという意味ではなく、破風(はぶ)が前と後にあるのが今日の地車の形ですが、さらに大屋根の左右二ヶ所にあり、計四ヶ所に破風が作られています。この破風が日光の「陽明門」の上部の形に非常によく似ているのだそうです。
また、特長としてロープの操作により滑車の伝道装置が働き、屋根が、上下動できることです。これは、岸和田城内に入るには、いくつもの門をくぐらなければならず、屋根を動かすことは名匠が苦心されました。しかし、時代が新しくなり、屋根を上下させる必要がなくなり、徐々に新しい豪華な地車に変わっていきました。
幕末の動乱につぎ、明治維新、廃藩置県、行政の大改革等、激動の時代が続きましたが、長滝の四ツ屋根だんじりは、健在だったそうです。しかし、ようやく世情が安定してきた頃、この地車は、岸和田の町から忽然とその優美な姿を消してしまったのだそうです。以来、古老たちはこれを惜しみ、この地車の事を話し合い、これを口伝えてきたのです。このような歴史から、「まぼろしの地車」と呼んでいたというわけです。
「長滝中の番の四ツ屋根地車の由緒」制作年: 文久2年(1862) 岸和田の名匠・梶 治三郎重忠 作地車の名称:四ツ屋根(四方軒唐破風上下動式)購入時期:明治23年(1890)岸和田大工町より購入発見時期:昭和48年〜49年復元修理:昭和56年
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年09月26日
秋祭り「だんじり」についてその3
<お祭り前の境内の整備>
10月9日(日)に神社に宮入のためだんじりが3台曳行されてきます。そのため役員さんが、邪魔になりそうな木の枝を切ったり、草をひいたり、水溜りの穴を埋めたりなど、神社をきれいにしてくださいました。移転してから、もうすぐ70年を迎えるので、樹木もだんだんと大きくなり、近隣の皆様には、大変ご迷惑をおかけしております。 役員さんは危険を顧みず、プロの植木屋さんのように、高い木に登ったり低木の樹形を整えたりして下さいました。一日ありがとうございました。梅の枝が伸び放題になっているのを整理して下さいました。
竹林の整理と背の高い木を切ってくださっています。
切り倒した木を運んで下さっています。
智恵神社の前の木を整理して下さいました。
危ないので、木の根の株を掘り出してくださっています。
智恵神社の屋根をよーく見てください。
台風でで折れた枝が、ちょうどうまいこと千木の上に挟まっていました。
屋根の木を取り除いて、修復してくださっています。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年09月25日